コーヒーを淹れる時にね、
ドリッパーの中の粉が
熱いお湯でブワッと膨らんでいるのを、
ポットの注ぎ口から出ているお湯の筋で、
引っ張り上げるようにします。

ひゅん ひゅん とね。

膨らみ続けるようにね。


掃除をしていると、
ここからここまで拭き上がったと思ったら、
そのすぐそこにまた新たなホコリの陣地が
ひろがっています。

次の面は次のホコリが護ってる。
ホコリの陣地。



いま、一番楽しいのは「からたちの花」を歌ってるときかな。
先週末や先月に訪れた長野の横谷温泉旅館のコンサートで大滝俊さんの伴奏で歌いました。
先月歌い終わった後に、この旅館には本当にからたちの木があると知って、また歌おうと決めました。
言葉が主体なので、1番から6番までメロディが変わっていくし、拍子もころころ変わる。私もこういう歌を作りたいです。

絵に関しても、四角い紙に描いていると四角い絵ばかりになりそうで、そういう時は自分がつまらない。そうじゃない絵を描きたい。



「旅=食べること」だと思ってます。
食べものや食べる風景って、風土に欠かせないでしょ?
そこで生きてれば、そこで食べる。
そこで生きてたいんですね。
ここで生きてる私のままで旅をしたいんじゃない。


本を読むことも、本を食べてるというのに近い気がする。
私に関してはね。

阿佐ヶ谷のヴィオロンに多田広輝くんの脚本・出演の二人芝居を観に行きました。
生のお芝居を観て時々思うのですが、昨日の会場は特に色んな方向から「舞台」を「客席」を囲んでいるというのもあって、どの場面でどこに注目するのか、それによってどういう体験をするかは人それぞれだということです。画面で観るテレビや映画は、しっかり計算されているであろうカット割があって、そういうことを表現するものだろうから、そこが生のお芝居は大きく違うんじゃないかと。多田くんが身体を伏せて泣き出すと、前列のお客さんの背中や会場の設えの手すりでその姿が見えなくなったのですが、泣いているのはちゃんと分かるのです。他の人には別の見え方をしているに違いないのですが、その場で確かなのは、そこに多田くんがいて、泣いているということ。存在するということ。見え方、見方は何種類もあるけれど。

横断歩道で信号待ちをしていると、通りの向こう側にあるギター屋さんの店頭スピーカーから音楽が聴こえてきます。車が横切る度にその音楽が遠くなって、通り過ぎるとまた元の音量で聴こえます。音そのものは見えないのに、目に見えるもので遮られるのですね。当たり前ですが。



駅の券売機でアナウンスがあっている「ご希望のボタンを押して下さい」の「ご希望のボタン」というのは「お好きなボタン」や「お好みのボタン」とは違うのよ、と思いました。
行き先はここなんだけど、ボタンとして好きなのはこっち、というのではふさわしい券が買えない。



早くも梅が咲いているのを見かけました。
2、3本。
早く咲く花を見つけると、その場所は陽当たりが良くて温かいんだなぁと思いやります。

今日もう一つ思ったのは、人間も季節によって容姿が変わったら面白いだろうなぁということ。
春になると頭頂部が咲く、とかね。
頭がふにゃっと開いていて「春だね〜」と言い合うのです。
遅咲きの人は頭がいつまでも固いの。



 
「からたちの花」の歌詞を読んでいます。作詞した北原白秋が、作曲した山田耕作の少年時代のエピソードを聞いて作った詞だそうですね。
最初に出てくる「からたちの花」は、記憶の中のからたちの花で、最後にもう一度出てくる「からたちの花」は、詞を作っている「今」咲いている花なのかな。
言葉は、これくらいシンプルなのがいいなぁ。




私が演奏しているのは、私の音楽だけれど、私と音楽は別。それくらいしっかりした音楽を作ろうね。
私の役割は目に見えているものが多い。音楽の役割は見えない。そして、演奏していない時にも、私の知らない場所でも、再生されていない時ですら、それはあると思います。